kotoseiryu888’s blog

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「夜長姫と耳男」☆坂口安吾を読んで…。

 

夜長姫と耳男

夜長姫と耳男

 

 

モラルがないということ自体がモラルなのだと知らされる。氷を抱きしめたようなせつない悲しさ、美しさがそこにはある。
 
お気に入り度 ★★★★
 
娘がお気に入りの文章を書き写す作業をしていた時、ふと目に入ったのがこの「夜長姫と耳男」だった。その文章を読んだ時、常識から逸脱した内容にある種衝撃を受けた。娘から青空文庫に入っているから読んでみたらということで読み始めたのだった。

飛騨地方に住む夜長の長者に呼ばれ、主人公耳男は姫に捧げる仏像を作るためやってきた。3年の間に姫が拝む弥勒菩薩を作るというものだ。ウサギのような大耳を持ち、馬のような顔にコンプレックスを抱いていた耳男は、姫からそのことを指摘され蛇をひっさき、生き血を飲み干し、蛇の死骸を天井から逆さづりにして、呪いを込めてバケモノを作るのだが、怒りを買うどころかそのバケモノ像を気に入る姫。そのころ、村では疱瘡が流行り、次々と死にゆく村人たちを見つめる姫の発した言葉は想像を超えたものだった。

この小説の面白いところは、カタカナ語が練りこまれているところだ。ヒメ、フシギ、ヒキデモノ、ホーソー、ツブラなどなど。漢字で見慣れている言葉がカタカナになるだけでこんなに違和感があるものなのか。耳男が長者にかけた言葉で「今生のおねがいでございます。お姫サマのお顔お姿を刻ませて下さいませ。それを刻み残せば、あとはいつ死のうとも悔いはございません」というのがあるが、この中のお姫サマの部分がおヒメサマでなかったところに耳男の心情の変化が表れているのではないかと思った。

ほのぼのとした小説ばかり読んでいたので、この小説は常軌を逸した異様な世界の話でなんだか恐ろしいなと思っていた。何かと共通点があると思って思い出したのが古事記の中に出てくる神話だった。イザナキとイザナミの愛情、我が子の惨殺、醜く変貌し妻から愛情が冷め、逃げ出すイザナキ、妻との決別。この小説が神話と似ている部分があると思うのは私だけなのだろうか?

ヒメの言葉に「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。(後略)」がある。好きなものを慈しむ、愛する、大事にするといった価値観がヒメにあったならこのような残虐さは生まれなかっただろう。

坂口安吾の「文学のふるさと」には童話赤頭巾の話を例に出して、こう述べている。「愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつのせつない「ふるさと」を見ないでしょうか。


この小説が現実の話だと考えると残虐で辛い話になるが、文学として、作品としてとらえた時、安吾のいう「文学のふるさと」にあった作品だといえるのではないか。著者が赤頭巾のように、むごたらしいこと、救いのないことが、唯一の救いであるという思いをこの作品に込めたのではなかろうかと思う。

わずか100頁程度の作品なので1時間程度で読むことができます。ぜひ手に取ってご覧ください。


 

夜長姫と耳男 (岩波現代文庫)